大アルカナ「審判」は思い出させてくれる!「変わらない『自己』の存在」

先日の朝のこと。
布団の中でぼんやりと目覚めた瞬間、私はこんなことを思いました。

「今ここは、そして私は、夢の中?それとも夢から覚めている?どっちだろう」

ぐっと目を開けて見慣れた天井が見えたとき、自分が夢から覚めた状態だと確定したのですが、その時の感覚は荘子の「胡蝶の夢」そのままでした。

「胡蝶の夢」は、思想家である荘子の説話のひとつです。

荘子は夢の中で、蝶として楽しくひらひらと舞っていた。
しかし、目が覚めると気づきます。
「あれ?自分は荘子だ。蝶じゃない」。夢の中では蝶だとばかり思っていたのに。

私が夢の中で蝶となったのか。
それとも本当は蝶で、夢の中で荘子となっているのか。

この説話で語られるのは「どちらが夢で、どちらが現実なのか、それは問題ではない」ということです。

いずれが真の世界であるかを論ずるより、いずれをも肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればよいのです。これが万物斉同の世界に遊ぶことであります。
物の変化とは表面に現れた現象面での変化にすぎません。胡蝶(引用者注:『蝶』のこと)と荘周(引用者注:『荘子』のこと)とか形の上では大きな違いがありながら、ともに自己という存在であることには変わりなく、さらに一歩すすめると、万物はさまざまに異なる形をもつが、すべてひとしい存在であるともいえるのです。

野村茂夫「ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 老子・荘子」角川文庫

「蝶である自分が本当だ」と認識している自己があります。
「荘子である自分が本当だ」と認識している自己があります。

自己があるから、蝶の姿も荘子の姿も認識できます。

現象面に現れる姿が蝶であろうと荘子であろうと、自己の存在は変わりません。

大アルカナ「審判」は「変わらない『自己』というものがあることを思い出させてくれます。