大アルカナ「女教皇」は思い出させてくれる!「雑念バンザイ!」


ちょっと手を止めて、静かに目を閉じてみてください。
頭の中にいろいろなつぶやきが行き来しますよね。

「夜は何を食べようか」
「メールの返事をしてないわ」
「週末のランチ会、お店を予約しなきゃ。面倒だな」
「この前あの人にプレゼントしたワイン、どうだったのかな。気に入ってくれたかな」

普段の私たちは、こうしたつぶやきをひとつひとつ「見る」ことをしません。
だから、頭の中でつぶやきが流れまくっていることに気づきません。
目を閉じてじっと静かにしてみると、びっくりします。そのつぶやきの多さに。

しかし、そのつぶやきを「静かに見る」こともまた難しい。

というのは、私たちは「静かに、ゆっくりと、批判なしにただ自分のつぶやきを見る」ことに慣れていないからです。いわゆる「雑念」として、排除すべきものとすら思う。

しかし、「雑念」は決して排除すべきものではない、いや、排除できるはずがないもののようです。

脳は絶えず、心の中にたまったいろいろなものごとを消化しつつ、「雑念」といういわば脳の「胃酸」(「脳酸」とでも言うべきでしょうか)を分泌します。
それは脳としてごく自然な働きですから、それに囚われる必要は全くないのです。雑念が湧いてきてこそ、脳の消化作業が可能になるのです。雑念を追いかけたりする必要もなければ、雑念を切り捨てる必要もありません。そもそも、雑念を切り捨てようと思っても、できることではないのです。「切り捨てよう」という思い自体が、雑念になってしまうからです。
坐禅中に湧いてくる雑念は「邪魔だ」と言う人がいますが、大体「邪魔だ」という思い自体が邪魔なのです!脳の消化作業の最中に、その邪魔をしてはならないのです。もちろん、その虜になってもいけません。消化が済み次第、雑念はおのずと消えます。

ネルケ無方「ただ坐る 生きる自信が湧く 一日15分坐禅」

心を見つめるというのは「雑念」を見つめること。
ただ見るだけ。
湧いてきた思いを掘り下げたり、なかったことにしようとしない。そうしているうちに消化されてなくなっていくのです。

だから「雑念」バンザイ。
ありのままの「雑念」ウェルカム!
出てくれば出てくるほど、掃除が進んでいるのです。

一日の中で、5分でも10分でも静かに座る時間をとって「雑念」を掃除してみてください。


大アルカナ「女教皇」は、そういう時間を取ることの豊かさを思い出させてくれます。