大アルカナ「教皇」は思い出させてくれる!「期待されてないことを必死にやってません?」

どんな人間も、なんらかの集団に属して生きています。
そこには「集団の一員として期待されている行動」が色々あります。

たとえば道路を通行するとき。私たちは「信号を守るという行動」を期待されています。
赤なら止まる、青なら進むという明確な行動基準。だから「期待されていること」が何なのか、考えるまでもありません。きちんと守って、安心して暮らすことができます。

しかし世の中の集団の中には「具体的には何を期待されているのかよくわからない……けれど何かしないといけないような気がする」ということもいろいろあります。

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勝手に「期待されていること」を作り出してしまう

そのひとつが、家族という集団において期待されている(と多くの人が思い込んでいる)「親孝行すべし」という期待。

「親孝行」ということばは一般的ですが、その内容が細かく決められているわけではありません。

それゆえ、私たちは勝手に決めてしまいます。なんなら行動を細かくリストにしてしまいます。

「1年に1回は帰省して親孝行をしなければ」
「早く孫の顔が見たかろう……そろそろ結婚しなければ」
「磯野カツオのように、肩たたき券を渡さねば」
「テレビを見ながら『行ってみたいわ~』とつぶやいていたハワイ。元気なうちに連れて行かねば」

信号のように「これさえやっておけばOK」とならないので発想の幅が広い。
そしてひとつやると「これでは足りない」ような気がして次から次へと行動し続けてしまう。

でも本当は「特に何もしなくてよい」のかもしれません。

期待されているのは、与えることではなく受け取ること


20代でお父様を亡くした同年代の友人。
亡くしたあとしばらくの間「父にはろくな親孝行ができなかった」と嘆いていました。

「もっとああすればよかった、こうすればよかった」「残された母には父の分まで親孝行しないといけない」会うたびに、そんな思いを口にしていました。

そんなころ、友人と少し年上のおじさんを交えて会う機会がありました。
おじさんは3人娘のお父さん。お嬢さんたちはみな成人しています。
そのおじさんが何となく口にした言葉。

「こどもは、3歳までに一生分の親孝行をする」

ぼそっと、でも実感のこもったこの言葉。
おじさんは酒を飲みながらいろいろつぶやいていました。

「親っていうのをやりたいからやってただけ。それができたのは『こども』として生まれてくれた存在があったから。『こども』という位置にいてくれるだけで十分」

「親からはもらいっぱなしでいいんだよ。受け取ることがこどもの役割なんだから。受け取ることを学ぶのがこどもの唯一すべきこと」
「残されたお母さんに……という気持ちもわかるけれど、何もしなくていいよ。あれこれ気を回さず、あなたが好きなことをやりなさい」

友人は黙って聞いていました。
そのあと、友人は前のように「親孝行ができなかった」と自分を責めることが減りました。

大アルカナ「教皇」は「ほんとうに期待されていることはなんなのか」を思い出させてくれます。

そして、こんなことにも気づくかもしれません。

「期待されていること」を拡大解釈し、本来の役割ではないことまで勝手に背負い込んでいたこと。
何かしないといけないような「気がする」だけで、ほんとうはしないといけないことなどないこと。

余計に背負い込んだものをそっとおろしましょう。