大アルカナ「吊るされた男」は思い出させてくれる!「ビバ!無関心」

最近私は瞑想に関心を持ち、「だたじっと座る」というのを実践しています。

きっかけは、瞑想をすると脳が休まり、リフレッシュできるときいたから。

リフレッシュできるカラクリは「瞑想をすると、頭の中に浮かぶ思考がゼロになるからだ」と予想していました。

座っていれば、しーんとした静けさの中に身を置くことができる。
だから心身がリフレッシュできるのだと考えていたのです。

間違っていました。
断言しますが、流れてくる思考をゼロにするなんて、無理。

というわけで思考をゼロにするのはあっさり諦めて「どんな思考がやってきても受け流し、ただじっと座る」という方向に転換しました。

しかし、受け流すというのも結構難しいのですよね。
どんな思考がやってくるのかと目を凝らして(?……実際は見えないのですが)いると、かなり黒いのがくるんです。

そのたびにどうしても「あぁっ!こんなことを考えてしまうなんて」「だめだめ、そうじゃないことを考えよう。えーと、呼吸に集中」などとやってしまう。

目をそむけることが、受け流すことではないんですよね。
受け流すというのは、あれこれと手を出さないこと。そのまま放置しておくこと。

つまり無関心です。


無関心ならば「あ!いたんだ!?」ってなもんで、そこに存在しようがしまいがどっちでもよい感じになるはず。

それが、抱いてはいけない(と勝手に決めつけている)思考に思い切り関心をもっているものだから、一生懸命に目をそらそうとする。自分の中から排除しようとするのです。

実践&試行錯誤を経て、今たどり着いたカラクリは次のようなものです。

排除しようと操作することが疲れを呼ぶ。
だから、操作しない、つまり無関心でいる。
そうすれば疲れない。だから心身がリフレッシュできる。


たどり着いたこの地点は、あながち間違いでもないかと思います。

みにくいことだからとか、不愉快だから、苦しいからといって、そこから衝動的に目をそらしてはいけません。
そのように嫌悪感をもって物事を見ている自分を愛すると、はっきり決心することが大切です。口に出していってみるのもとてもよいことです。できれば、それが美しく見えるようになるまで、じっと見守っているとよいのです。せめて、それに無関心でいられるようになるまでは、あなたの意識をそこからそらしてはいけません。

タデウス・ゴラス著 山川紘矢・山川亜希子訳「なまけ者のさとり方」PHP文庫

逆さにつられた男。
「苦しいな」とか「なんでこんな目にあうのよ」なんていう思考がわかないはずがない!
しかし、なぜか彼の頭からは輝く光が放たれている。
吊られている間に「無関心」を体得した彼は疲れ知らず。
蓄えたエネルギーを頭から発光させているのだと思います。


大アルカナ「吊るされた男」は「その気になれば、無関心になれる」ことを思い出させてくれます。