大アルカナ「死」は思い出させてくれる!「『自分のもの』などなにもない」

私は20代後半に株取引に興味をもち、口座を開設してから20年以上となるのですが、年数の割に取引の経験は数えるほどしかありません。
したがってぼろ儲けしたことはありません。

しかし大損したことはあります。2010年、日本航空が経営破綻したときです。

50%オフで航空券が購入できる株主優待に魅力を感じ、株取引を始めたころからずっと保有していたJAL株が、一瞬で紙くずになりました。

何億というレベルの投資ではなかったことが幸いし(そもそも何億って見たこともない)、路頭に迷うことはありませんでした。

しかし、株式投資用の資金のかなりの部分は失ったわけで。

大変心が痛みました。

「自分のものを失う」というのは、それがなんであれ、大なり小なり痛みを伴うものです。

そもそも「自分のもの」とは何だろう?

株は売り買いできます。
買ったら自分のもの(のように思える)。売ったら他人のもの(のように思える)。
コロコロと所有者が変わるのです。

こんなふうに売り買いできるものは「自分のもの」なのだろうか?
簡単に所有者が変わるものが「自分のもの」なんだろうか?

そう考えてみると「自分のもの」と思って私が身の回りに並べているものがどれも怪しく見えてきました。

とれたてのキャベツをもらったのですが、果たしてこれは?

キャベツは自分のもの?食べたらどうなる?
キャベツとしての形を失うわけですから、キャベツ自体存在しなくなる。
ということは誰のものでもなくなる?
それともやっぱり自分のものを失ったことになる?
……???

パソコンはどうだ?服はどうだ?仕事は?友人は?

あれこれ考えておかしくなってきたところで「肉体」はどうだろうと思いつきました。

(超特殊なケースをのぞけば)売買も譲渡もできません。
これぞまさしく自分のもの。
未来永劫何が何でも自分のものにしておきたい最たるものはこれではないか、と。
「自分のもの認定コンテスト」のグランプリではないでしょうか。

とはいえ「未来永劫」というのは無理だな、と思ったところでこんな文章を発見しました。

よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書

これを読んで私は、久闊を叙する(きゅうかつをじょする)という表現と、その意味である「無沙汰をわびるあいさつをする。久し振りに友情を温める」を新たに知ったという以上の衝撃を受けました。


私たちの体は、分子レベルではお変わりありまくり。
かつて私の一部だった原子や分子は、もう私の内部には存在しない。

売買も譲渡もできないと安心していた肉体の一部は、勝手に入れ替わっていた。
「自分のもの」ではなかったのです。

さらに追い打ちをかけるように続くこの文章。

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実態があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。

福岡伸一「生物と無生物のあいだ」講談社現代新書


たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」。
しかも、高速で入れ替わっている。
……所有も何もあったものではありません。
この見方をするならば、肉体は所有という概念に当てはまらないものだった。

もしかしたら、すべてがそうなのかな?
そう思うと、楽になることがたくさんあるのかもしれません。


大アルカナ「死」は、自分のものなどなにもなかったことを思い出させてくれます。