あなたは、誰に認められなくてもあなたです

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「誰かに認められたい」。人間なら思わない人はいないでしょう。

では、その「誰か」は誰なのでしょうか。家族、友達、同僚、上司、世間一般。いろいろな名詞が入りそうですが、誰もが多かれ少なかれ当てはまる「誰か」は「母」ではないでしょうか。

「母に認められたい」。
その思いのおかげでがんばることもできるけれど、そのおかげで窮屈になっていることもある。そんな気づきのシェアです。

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母親から植えつけられた無価値観

そんなことを感じたのは、木内昇さんの短編集「占」に収録されている「北聖町の読心術」を読んだのがきっかけ。

木内昇


「北聖町の読心術」の、おおまかなあらすじです。


主人公の佐代は、自分の容姿に自信がもてない二十歳の女性。自分は何の取り柄もなく、なにひとつうまくいっていないと感じている。

そんな佐代を、武史郎という青年がデートに誘う。武史郎は、佐代が通う絵画教室の女性たちがこぞって好意を示すほどの好青年。

武史郎とデートを重ねるようになる佐代だが、「こんな自分が男性から好かれるはずがない」という思い込みが次々と疑念をよび、武史郎の気持ちを信じることができない。本人に尋ねる勇気も出ない佐代は、「武史郎の本当の気持ち」を知るために、次々と占い師をたずね歩くことになる……。


しかし、占い師に前向きなことを言われても、佐代は信じることができません。

武史郎についても同じです。どれだけ武史郎が優しさをみせても「私なんかにそんなふうに接するなんて、きっと裏があるに違いない」という思いを消せません。

女性

「こんな私に、そんなよいことが起こるはずがない」という自己評価の低さにもとづいて、すべてを解釈してしまうのです。


佐代の自己評価の低さの原因は母親です。
小説では、母親の佐代に対する無関心な様子が描かれます。
そんな様子を「自分は誰からも関心を持ってもらえない」「みんな自分のことを面倒に思っている」という自己評価を強化する材料にしてしまう佐代なのです。

自分は人から愛されるような人間ではないのだ。親にすら関心を抱かれないくらいなのだから、他人からすればきっといくらでも代わりが利く、価値のない人間なのだ――。

木内昇「占」新潮社

最強のアドバイス「不可解をやり過ごせ」


佐代は、生まれて初めての男性との交際という出来事をきっかけに「自分に対する無価値観」と向き合うことになるわけですが、これは、無価値観を植えつけてきた母親と向き合うことでもあります。

「向き合う」とは、真正面からぶつかるというイメージ。しかし、この小説ではこんな向き合い方を提示してくれています。

それは「不可解をやり過ごせ」

小説の中では「ある人」が佐代にこう告げます。

お母さんがあなたを遠ざけているのは、あなたが原因なのではなくお母さん自身の問題。そしてそれは、あなたにはどうにもできないこと。


これは、一見手も足も出ない無力感を覚えるような言葉に思えますが、私はそうは思いません。むしろ、とても前向きな提案に感じます。


それは、次のようなメッセージを感じるからです。

―だから「なぜ自分に対して無関心なのだ」と母に問い、答えを出すという向き合い方はしなくてよい。

―なぜ、母が無関心なのか。その理由などわからないままでよい。

―それはそれとして、あなたはあなたの道をゆけ。

歩く

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母親に愛されなければ駄目だというのは大きな間違いです


「ある人」は、佐代にこんな言葉も渡します。

母親に愛されなければ駄目だ、自分はいらない人間だ、と誰しも思い込んでしまうのですが、それは大きな間違いです。あなたは、誰に認められなくてもあなたです。

木内昇「占」新潮社

私たちは、生まれると「へその緒」を切り離します。それは、それまでひとつだった母親と物理的にふたつになる瞬間です。

でも、精神的な「へその緒」も切り離されるわけではありません。では、精神的な「へその緒」が切り離されるのはいつなのか。

それは、自分が「母親に愛されなくても大丈夫だ」と思えたとき。
「母親に認められなくても、私は私」と思ってよい、と自分に許可できたとき。

能動的に「切り離す」行為をしようとする必要はありません。
その人それぞれの最適なタイミングで、精神的な「へその緒」が切り離されるきっかけが起こります。

他の誰に認められなくても「私は私」。
そう思えたとき、まるまっていた背筋を伸ばして進むことができるのです。