物事をありのままに見る

物事をありのままに見るとか、先入観なく見るということ。
大事だよね・・・と意識してはいるのですが、ありのままに見た結果「私には頭がない」とおっしゃっている人がいた!
「ありのまま・・・って、こういうことか~」と衝撃をうけましたので、シェアします。

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「見たまま」の自画像

自画像って、鏡にうつった自分を「見たまま」描きますよね?と信じていた私ですが、そうではない自画像というものがあるのです。

これは、エルンスト・マッハ(1838年~1916年 オーストリアの物理学者・哲学者)による自画像(wikipediaより)。
マッハの左目から見ている「見たまま」の自分です。

試しに、自分の身体を自分で見てみると、確かにこんな感じ。
直接見ることができる自分の身体は、つま先からずっと上へたどっていって、胸のあたりまで。
また、指先から、肘、二の腕くらいは見えますが、肩を見ようと思ったら少し首をひねらないと見えない。右肩が見える位置だと、左の二の腕は見えなくなります。

だから、「見たまま」を描こうと思ったら、顔は描けないわけです。自分の目で直接見えてはいないから。

そういわれてみればナルホドなんですけど、「自画像とは顔があるものだ」と思い込んでいるから、マッハの描いた自画像を初めて見たときは「えぇ~っつ??」でした。

しかし、マッハの「見たまま」の自画像を「えぇ~っつ??」で終わらせず、自画像を見つけたことをきっかけに「私には頭がない」ことを発見した人。


それが、イギリスの哲学者ダグラス・ハーディング(1909年~2007年)です。

「頭がない男」ダグラス・ハーディング

頭がないと言われても・・・

「鏡に頭がうつるよね?だから、自分の首の上に頭があるよね?」

と、当然思うわけですが、ハーディングは

「頭は鏡の背後にあるのであって、自分の首の上にあるわけではない」

と言います。ここでも本当に「見たまま」。

確かに、「自分の首の上に頭があること」は直接自分の目では見えません。
自分の目に見えるのは、「鏡とその中にある自分の頭」。
ですが私たちは、過去の経験から「鏡とは、相対するものの姿を映し出すものだ(だから、鏡にうつりこんでいるものは存在している)」と考えてしまいます。

ハーディングに言わせれば、これは過去の知識経験にもとづいて現実を歪んで認識しているということ。だから、「ありのまま」は見ていない。

ハーディングは、同僚に自分のこの考えを話してみるのですが、「奇妙な人ですね」という反応・・・。

それに対してハーディングはこう思います。

人々は自分に対する社会の見方を疑うことなく受け入れる。彼らは自分の感覚の証拠を信頼しない。彼らは自分自身で見ないのだ。

「頭がない男 ダグラス・ハーディングの人生と哲学」より

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自分の感覚を信頼する

人から見たら、自分には頭がある。
これが、「自分に対する社会の見方」。

一方、自分で自分を見てみると、頭は見えない。
これは、「自分の視覚の証拠」。
この証拠を信頼することなく、人から見た時の「頭がある自分」の方を信頼する。

そうだな、とは思うのですが、長年染みついた「頭がある自分」を即座に疑うことはなかなかできないよね・・・というのが実感です、正直なところ。

でも、「見えていないから頭はない、ということにしておこう」という軽さで、モノを「見たまま」見る練習は面白い。新しいことを取り入れるには、何でもまずは練習です。

見たまま、ですから、モノの形は見るたびに変化します。

こちら、遠くから見たモンサンミッシェル。

こちら、近くから見たモンサンミッシェル。

このふたつは、別物(ということにする)。

「何を言っているの!!自分の位置が移動しているから見え方が変わるだけで、モンサンミッシェル自体の形は全く変化していないんだよ!?」という至極ごもっともな「過去の常識」は一旦横に置いておく。

一瞬一瞬目に見える形が違う、つまり、一瞬一瞬モンサンミッシェルの形が変わっている!!

ということにするのです。そして、
私たちは、物を拡大したり収縮したりするパワーをもっている!
というように自分の感覚を信頼すれば、この世は見るもの聞くものすべてが新鮮。どこにいてもワンダーランドなのです。

日常生活に潜む奇跡と神秘

ハーディング流でモノを見ることを、頭の体操を兼ねて練習しています。

今のところ、私が良いと思うのは、前後の時間の流れが分断されて「今ここ」に集中できること。

目の前で拡大や収縮を繰り広げる物体はもちろん、暑い・寒いといった自分の感覚も、次から次へと変化しながら目の前に現れます。次に何が現れるのかと意識していると、圧倒的に「今」に居られます。
ハーディングは、そうした一瞬一瞬がとてつもない奇跡で、神秘的なもの、と考えていました。

自分には頭がない。何もない。私という「見る主体」は、世界の中に一個の肉体と心として存在しているのではなく、世界の現象そのものだ、という気づき。

これを発見した時、ハーディングは「深い平和、静かな喜びと、耐えがたい重荷を降ろした感覚を感じた」そうです。

その後、独自の実験を通じて彼の発見を体感してもらう活動に精力的に取り組みます。ただ話すだけよりも、一緒にやることが大事だ、と。

本を読んだり、話を聞いたりすることもよいけれど、自分で実際にやってみて腑に落ちるかどうかを確認することがやっぱり大事。「頭のない男」の訳者あとがきにも、こうあります。

ダグラスがいつも言っていたことがある。「私とは本当に何かを見ることは簡単であるが、それを見続け、それを信頼し、それを生きることは修行である」

 私は「修行」という言葉は好まないので、「練習」という言葉を使う。調子のいいときも悪いときも、状況がよいときも悪いときも、何が現象世界に起こっても、毎日「私とは何かを見ること」を練習する。練習することによって、信頼が増し、信頼することによって、必要な洞察や知恵が出てくることを長年の経験から学んだ。


「頭がない男 ダグラス・ハーディングの人生と哲学」より

ダグラス・ハーディングの考えや実験については、こちらのサイト(頭がない方法 ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法)でも紹介されています。

また、彼の生涯とともに、その哲学をイラストで描いた本「頭のない男」があります。実験部分などは特に、イラストが随分助けになり、ハーディングの考えを理解するにはありがたい本です。

「ありのままに見る」そして「それを見ている頭のない私は、何者か?」ということにご興味のある方はどうぞ。