「幸福はだれにくる?」と聞かれたら

劇団うりんこの演劇「幸福はだれにくる」を見た。演出は三浦基(地点)、美術はクワクボリョウタ。

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「ん?なんでこういう話し方なの??」が第一の感想

「あいちトリエンナーレ2019」パフォーミングアーツプログラムのひとつで、会場は名古屋市内にある愛知県芸術劇場。

だから、最初に口を開いた登場人物のセリフが名古屋弁だったのも「まぁ、そういう演出なんだな」と思った。

しかし、次に登場した人物は、博多弁っぽいなと思えば東北風なイントネーションも混ざっている。「〇〇弁」とひとつにくくれない、「標準語ではないどこかの地方のことば」でセリフを発する。そのうちに、標準語だけを話す登場人物も出てきた。

もちろん、どれも日本語だから、言っている意味はわかる。
しかし、舞台の上の人々がてんでばらばらな言葉を話している、という印象をもった。

その日は公演後に、演出の三浦基氏と名古屋外国語大学学長の亀山郁夫氏のトークを聞くことができた。

演目の「幸福はだれにくる」の作者は、ロシアの児童文学作家マルシャーク。
ロシアに対して知識のない私には、ロシア文学者亀山氏によるロシアの解説は、なるほど~の連続。
そして、三浦氏の演出意図。
あぁ、だからこういう演出になってるんだ!と、制作者の意図を直接知ることができた。このトークのおかげで、舞台を見た満足度がかなり上昇した。

そして、ふたつのことを再発見した。

再発見その1:「どのように話すか」が訴えることは大きい

気になっていた「言葉」については、あえて言語のコントラストをつけるという演出意図だったとのこと。

たとえば、「博多弁っぽくもあり東北風な感じもする」と私が感じたのは、木こりの役のセリフだった。

演出の三浦氏は、「木こりは、そもそもがなまってる設定を背負っている」というコメント。
役者さんが、完璧な名古屋弁ネイティブではないため、逆に「どの地方の言葉でもよい」ということになり、「なまってる」ことを出すための言葉遣いであったと。なるほど、と思った。

役柄上の木こりには、流ちょうな標準語よりもふさわしい言葉遣いがあるのだ。

たとえば、木こりAがこんなふうに自己紹介をしたとする。
「はじめまして。わたくしは、毎日山の中で木を伐採しております、木こりでございます。先日も、杉山様のご依頼により、杉の木を伐採してまいりました。森の中にいるのが好きなので、仕事は楽しいのですが、『木を切ると赤字だわ』と、クライアント様に嘆かれるのがつらいですね。『お金が入用になったら、木を切って売れ』なんて言われた時代もあったのですが・・・」。

これに対して木こりB。
「わしは、毎日、山で、木を切る」と、低い声でぼそっと語る。
必要なことだけ話したら、斧をもってさっさと山に消える。

木こりBの方が、木こりらしい。なんとなく。

「話す内容」ではなく「どのように話すか」も、表現のひとつなんだよね、ということを再発見できた感じ。
「木こりらしい話し方」なんて、普段は意識しない。
しかし、無意識のうちに人々が共有している「木こりらしさ」が確かにあるのだ。
見た目と同じくらい、話し方にも。

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再発見その2:共通点が多いから理解しあいやすい、とは限らない

だから、自分が期待していた話し方が裏切られると、「あれ?」という違和感が生まれる。

私が「みんながてんでバラバラなイントネーションで話すことに感じた違和感」もこれだった。舞台の上の人たちは、標準語なり名古屋なり、統一した言葉を話したほうがわかりやすくない?という期待。それが裏切られての「あれ?」

多分、「できるだけ同じOSを使おうよ、その方がおたがい理解しやすいから」という思い込みが自分の中にあるのだなぁ。

この思い込みは、共有するものが多ければ多いほど理解しあえる、とも言い換えられる。同じ日本語、同じ方言、同じリズム、同じ間合い。

「同じ」であればあるほど、理解しあえるという思い込み。
いやいや実際には、同じ方言で話しても、同じテンポで話していても、「まったく理解できない人」などごまんといる。

一方、たどたどしい外国語で言葉を交わした人と「理解しあえたな」と感じたことも一度や二度ではない。「理解しあえた」が自分の思い込みであっても、手ごたえがある、と自分ではっきり感じることがある。

そうだったそうだった。
見てわかる共通点は、当てになることもあるし、ならないこともあるのだ。

「苦しみを恐れていては幸せには出会えない」

「幸福はだれにくる」は、ロシアの児童文学作家マルシャークの戯曲。
あらすじはこんな感じ(公演パンフレットより)。

あるところに年老いた木こりがおりました。木こりは「憂き目(うきめ)つらい目ふしあわせ」というやくびょうがみにとりつかれたせいで、どんなに働いてもびんぼうなまま。口べらしのために、めいのナースチャを金持ちのおとしよりにとつがせようと思っていますが、ナースチャには兵士の恋人がいます。「憂き目つらい目ふしあわせ」からのがれるには、なにか物を売り、その「おまけ」としてこのやくびょう神をつけること。木こりは、なんと王さまにそれをなすりつけますが、こんどは王国がききにおちいってしまいます。やくびょう神のそんざいに気がつき、なんとかのがれようとする王さま。今度はだれに「憂き目つらい目ふしあわせ」をおしつければいいのでしょう。だれかにおしつけなければ、幸福にはなれないのでしょうか。


トークの中で亀山氏は、戯曲の原題をロシア語とともに、英語でも説明された。
英語タイトルは公演パンフレットにも大書してある。

「Afraid of Troubles – Cannnot Have Luck」。
苦しみや悲しみを恐れていては、幸せには出会えない。

演出の三浦氏によれば、ロシアは演劇先進国。
ホテルなどで、エレベーターが止まる、電気が消えるというトラブルはしょっちゅうなのに、劇場ではそういうトラブルが起きない、とのこと。

劇場という場、そしてそこで繰り広げられる演劇は、ロシアの人々にとってウオツカと同じくらい必要とされている・・・そうです。

苦しみや悲しみを恐れていては、幸せには出会えない。

日々の苦しさや悲しさから逃げ回るのではなく、ウオツカで飲み干す。演劇で笑い飛ばす。
見ようによっては逃避に映るかもしれないけれど、それは立派な「知恵」なのだ。
苦しさや悲しさを自分でコントロールできないのなら、それを受け入れ、楽しめる工夫をするという「知恵」。生まれる国は自分で選べないけれど、それを嘆くだけに終わるか、ウオツカを飲んで高笑いをするか、芸術に昇華させるかは好きなように選ぶことができる。

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「幸福はだれにくる?」

小さいころ、これも演劇で見た「森は生きている」も、マルシャークの作品だった。これは、今回初めて知った。

劇中の「ころがれ ころがれ 指輪よ!」というセリフが気に入って、観劇後もしばらく家の中で叫んでいた記憶がある。しかし、覚えているのはそこだけで、あらすじは思い出せない。

全体のストーリーよりも、口ずさみたくなる語感をもつセリフ。
そんな断片的なもののほうが、意外に記憶に刻み込まれやすい。そして、それだけで十分なのだと思う。

今回、頻繁に出てきたセリフ「幸福はだれにくる?」。
このセリフの後、舞台上の全員が高笑いする。
「幸福はだれにくる?」
このセリフ、しばらくマイブームになりそうだ。

「幸福はだれにくる?」と問われたら。

「その人なりのウオツカや演劇を持っている人のところ」。これが、私なりの答え。

☆☆☆☆☆
「幸福はだれにくる」は9月21日(土)、22日(日)は、豊田市民文化会館でも上演されます(公演情報こちら)。
脳みそを揺さぶりたい方におすすめです。

美術のクワクボリョウタ氏は、100均で手に入るようなグッズで、幻想的なシルエットを生み出すアーティスト。
クワクボ氏が手掛けた美術もまた、脳みそが揺さぶられます。